『災』のある「男」は視聴者に「人間の根源的な無能」を直感させる

 

 Netflixで劇場版の『災』が見れると聞きつけて喜び勇んで視聴した。(ちなみにネトフリではドラマ版も見ることができる。)一発目の感想はみんなと寸分違わぬ同じである。

「香川照之がずっと怖い」

これに尽きる。

映画版は元々WOWOWで放送されていたドラマ版を編集したものなので、物語構造としては群像劇となっている。不可解な死が連続で淡々と描かれ、そこには必ず目に正気が完全に消え失せた香川照之がこちらを見ている。

ストーリを言ってしまえば上記で事足りる。派手な殺人シーンがあるわけでも、香川照之演じるある「男」が警察に追い詰められるわけでもない。さらに言えばこの男が全ての事件(事故?)の犯人であるという証拠がガッツリと示されるわけでもない。

しかし、一連の事件と男には絶対に関係がある、というよりもなくてはならないのだ。

本記事ではこの映画における男の最大の役割とは何かについて考察し、そこから派手な展開がなくてもなぜこの作品に視聴者が釘付けになってしまう理由を提示する。

「男」は「不可解」の記号として機能する

『災』公式HP

 結論から言うとこの映画における男の最大の役割は、人々にとっての「不可解」生み出すことにある。なぜあの人が死ななければいけなかったのか?そしてそれはどうして隣にいた私ではなかったのか?男はこの差異に明確な説明を施すことはなく去っていき、またどこかの人々に「不可解」を置いていく。

まさしく原因不明ーーーーーー「災」そのものである。

凄惨な事件や事故のニュースを目にした時、我々はそこに少しでも合理的な説明を求めようとする。そこに納得できる物語があれば安心できるからだ。「自分はこんな目に遭うことはない」と。しかしそんなものはまったくと言って良いほどに根拠薄弱でいい加減なものである。本当は誰しもが突然「災」と出会ってしまうことはある。そこに合理的な理由を追求しても仕方がない。

この映画の見どころは男がもたらした不条理な事実を人々はどう承認しようとするのか、その人間模様にある。ある者はそれを受け入れ、ある者は慟哭する。変わらないのは男が突きつける「どうしようもなさ」のみである。

本作に限らず、ありとあらゆる物語では理解の範囲を超えた現象が世界には存在していることを繰り返し語っている。そしてそれを知らしめるのはいつも「男性的」な存在だった。おそらくフロイトーラカン系列のエディプス的機能という意味で、本作もあくまでも主人公はある「男」だったわけである。

つまり本作においては事件の真相解明などまったく無意味であって本質ではない。別に男が被害者を殺していようが殺してなかろうが関係ないのである。物語の肝は男の方にではなく男の周囲にいた人々の言動にある。男はただの象徴でしかない。

しかし香川照之が香川照之にしかできない怪演を2時間ず〜っと見せつけてくるので、ついついそこに目が行きがちであるからこそ余計に作品としての特異感が出たのではなかろうか。

視聴者は「男」の何を恐れているのか?

 見ている人はとにかく男に恐怖していたはずだ。ただそれをしっかりと言語化できる人が少ないことは想像に難くない。もちろん男の黒目が大きすぎて怖いとか、男が発するセリフとセリフの間が長すぎてそれが恐怖を増幅させているとか、表面的なことは言える。しかしそれは先ほども触れたように香川照之の役者としての力量に依るところが大きい。

我々が本能的な意味で男を恐れる理由はただ一つである。それはどういった基準で悪意が向けられるのかが全く見えないということにある。想像してみて欲しい。昨日喫茶店で笑顔で喋っていた知人が今日になると自分を殺そうとする姿を。自分の何がいけなかったのか?何かトリガーになる一言を言ってしまったからなのか?全ては分からない。

この「分からなさ」というのは最終的に自身に無能感を去来させる。他者をどれだけ理解した気になってもそれはこちら側が勝手に抱いている幻想で、その理解が他者に届くことは永遠にない。この不完全な自分を人はいつしかそういうものとして受け入れるようになる。それが世に言う「成熟」であり、平たく言えば「大人になる」ということなのであるが、大人になったとしてもその無能感がふとした時に顔を出すことがある。そう、本作で起きるような不可解な目に近くで遭遇した時にである。

この不可解が連続で起きることで視聴者はその不協和音に耳を塞ぎたくなると同時に虜になってしまう。次こそは私にも理解できるような説明をくれと。しかしそのような機会は一生訪れることはなく、男はただただ画面の中で不気味な笑みを携えて立っているのである。

 

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