ポン・ジュノ監督作『母なる証明』は出口のないトンネルを歩き続ける映画

①「親子の絆を描いた感動」映画ではない。

 映画というのはそもそも作為的な物であるが、ポン・ジュノの作品には特にそれを感じる。映画というものを一つの建造物に例えた時、パーツの選び方から細部の設計まで完璧なのだ。その中でも私のとりわけお気に入りなのが、2009年公開『母なる証明』(英題:Mother)だ。

 貧しいながらも仲良く暮らしている母と息子。そんな中息子が女子高生殺人事件の被疑者として警察に拘束されてしまう。息子の無実を求めて母は真犯人を見つけるため奔走するという物語だ。母親役をキム・ヘジャが、息子のトジュン役をウォンビンが演じている。

 ストーリーだけを見ると母と子の絆を描いた作品のように見えるが、この映画はそのようなわかりやすいテーマ性を持ったものではない。そのような要素はあるにはあるが、それは作品の一つのパーツに過ぎない。様々な要素が綺麗に組み合わさりながら結末に向かった先には、感情の行き場をなくした人間の姿が浮かび上がってくる。

②要所に現れる人間の滑稽さ

 ポン・ジュノの作品はどれもシリアスなシークエンスの中に、ふと気が抜けるようなユーモアが顔を見せるが、本作でもそれは健在だ。単純なギャグではなく人間の滑稽さを描いており、本作の結末を知ってからもう一度鑑賞するとそれらのシーンがとても物悲しく感じてしまう。殺人事件の現場検証でトジュンが野次馬の中にいるミナ(チョン・ウヒ)を見つけて手を振るシーンなどがそうだろう。

 母親は物語の後半までずっと息子の嫌疑を晴らすために動き続けるが、ことごとく空回りする。その上手くいかなさ加減には下手をすると笑いが起きかねないが、映画が終盤に近づくにつれてそれは「母親の歪んだ自己愛」という狂気的な姿に変貌する。息子への愛ではなく自己愛というのが重要で、この物語の悲劇は母と子が互いを同一視していることに原因の一端がある。

 トジュンは母に反抗しつつも依存するしか生きていくことが出来ず、母はトジュンが人生の全てだ。トジュンが自分を助けようともがく母に対して、素直に記憶を解きほぐしていくことが悲劇を呼ぶことになる。

③社会階層の下の中での奪い合い

  本作は持たざる者がさらに持たざる者から奪うという地獄を描いた物語でもある。ジンテからトジュンと母へ、親子から真犯人へ、また別の位相では事件の目撃者のホームレスの男性から被害者へといったように、奪う方は社会的に高い地位にいるわけではない。この収奪の行き着く先は事件の結末に直結する。現実の世界でも悲劇を起こす側である加害者が、別の側面から見ると被害者であることを鑑みると、この映画は出口のないトンネルを歩くしかない社会を真正面から抉り取った快作であると言えるだろう。

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