『本を読めなくなった人たち』は本がなくなる未来を予言する

中央公論新社
本が大好きだ。特に紙の本は人生の最良のパートナー。
そう信じている私からは想像できないタイトルの本が今年発売された。『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』。著者は前著の『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』で話題になったライターの稲田豊史だ。
最初に言っておくと、この本は昨今の読書離れ云々を嘆く趣旨のものではない。もっと壮大な内容だ。「本」というコンテンツが今まで何を成してきて、これからどうなるのかという未来を描いたいわば歴史書である。さらに強調すべきはライターとして紙の本をいくつも世に出している著者自身が無関係ではないということ。
当事者である著者が自分の仕事が今後限りなく減ることを冷静に分析しつつ、これからの本の行末を考察する様はプロとしての矜持を感じた。

光文社
令和の若者と業界人の声から見えてくる本の未来
この本の構成はシンプルだ。著者が現役の学生(当時16歳〜28歳)と本に関係する業界人のインタビューから得た意見をもとに、本がこれから先どうなるのかを論じるという体裁をとっている。
学生の声はあまりにも真っ直ぐで切れ味が鋭く、業界人の声は悲痛に満ちていたというのが印象だ。無理やりまとめると「今時本を積極的に読む人は希少で、市場価値としてもどんどん下がっている。」ということになる。
そんなことは前から言われていたことだが、この本の凄さはなぜそうなったのかということを丹念に分析した点にある。分析の前提として、著者はこう述べている。
「令和に入り、日本は文章を読まない不読社会ならぬ、文章を読むことが合理的でないとされる「非読社会」とでも呼ぶべき様相を呈しはじめた。」
「本を読めなくなった人たち」p18
そして本書の位置付けとして著者はこう述べる。
「本書は(中略)有史以来最大級の劣勢を強いられているテキストメディアの現状と行く末を、統計データや制度論からではなく、生身の人間に直接話を聞くことで明らかにしようとするルポである。」
同書p18
本どころか手軽なネットメディアでさえまともな記事はほぼ読まれない現代
著者は冒頭で「非読社会」というワードを出した。そこにふと疑問符が浮かんだ。なぜなら今は誰しもがスマホでネットに繋がり、さまざまな文章を読んでいるのではと思ったからだ。SNSの短文からネットニュースまで、確かにその内容は玉石混合だろうが、「非読」は言い過ぎではなかろうかと。しかし本書を読むと情報をとりにいくという主体的な動機でもって記事が読まれる時代はとうに過ぎ去ったことが分かった。
ネット上にある膨大な文章は多くが無料だ。その中には無論、良質なものも数多くある。しかし無料だからといって読者は読み応えがある文章を読んでいるわけではないらしい。
想像するに容易い。難解な文章を読むには体力がいる。めんどくさい。無料だからこそ、自身で思考する必要のない手軽に読めるものに手を伸ばす。ただその現状はあまりにも悲惨だった。著者の知り合いの編集者はこう述べる。
「ここ2、3年、ウェブの記事は、一般的なビッグニュースを報じるものを除けば、『他人の不幸』『エロ』『マンガ』『クイズ』しかPVを取れません。」
同書p38
つまりは単なる刺激物である。WEBに限らずテレビも上記のジャンルに沿った番組を放送しているように思う。これらの共通点は圧倒的な「分かりやすさ」だろう。
自分の共感できる内容のものしか読みたくないという感情は、ネット空間そのものをよく表している。アルゴリズムが自分の好みを瞬時に把握して次から次へと似たようなコンテンツを出してくれば瞬時に「ああこれこれ。」と思えるものしか目に入らなくなる。
本よりも手軽に文章を読めるネットでの文章ですらこの有様なわけである。必然的に紙の本で難解な本やニッチな本が読まれることはなくなっていく。
では紙の本の舞台である本屋は、本を読まない人にとってどういう存在なのか?
本屋は趣味人のためだけの閉鎖空間
そこそこ本好きな私は月に2〜3回は本屋に行く。確たる目的がなくともとりあえず本屋に入るというのは私の中のルーティーンだ。本書の第4章では本に馴染みがない人にとってそこがいかに近づきづらい空間なのかということについて言及している。
インタビューを受けた17歳のF夫さんは、今の若者の感覚と本屋というビジネスモデルのギャップを明確に指摘していた。
「書店って、評価がまばらな本をなんでも置いていますよね。でも、ファッションはそうじゃない。売れない服は店頭に置かないじゃないですか。今の書店は、たくさんある書籍から欲しいものを手に入れられるメリットより、買って満足するものを見つけることの難しさの方が際立ってる気がします」
同書 p196
あまりにも的を射ている。欲しい本に限って置いていないという経験は私もよくある。数年前の本でも置いていないということはザラである。結局、Amazonで買うことになる。(本屋で取り寄せることも可能である。しかしAmazonでポチれば1日で届く中、取り寄せなら最低でも1週間以上待たなければいけない。)
ここで「いやいや本屋はそういう場所じゃないんだよ。欲しい本も欲しくない本も、役に立ちそうな本もそうでなさそうな本も、一つの空間に集約されているところにロマンがあるんだ。」などと言っても意味がない。この青年はここで「メリット」という言葉を挙げている。ここに本質がある。
そもそも本屋という商売は「消費者」ファーストとは言えない。青年が述べるように服でもご飯でも通常は消費者が今一番欲している商品を店頭に置く。
欲しい本があるかどうかも分からないのに、わざわざ書店に出向いて探す手間を消費者に前提として押し付けている状態は、商売として異端と言える。この感覚は若い世代になればなるほど顕著になるだろう。
本屋に定期的に足を運ぶ人は少数派
ではどういった人が定期的に本屋に出向くのか?
それは「本」というもの自体を愛している人、つまり趣味人としての本好きと言える。
彼らは本を愛しているが故に本屋に通う。それはさながら時計好きが時計自体を愛しているからこそ時計屋に通うことと同じである。道具としての本を買うのではなく、それ自体を愛でるために買う。
しかし本を読まない若者の間ではそのような本好きは敬遠対象として映るらしい。著者はそれを本好きの自意識というワードで紹介している。
「本をあまり読まない学生の「本を読んでいる人」に抱く印象は、半数程度は「憧れ」だが、残りの半数程度は「近寄りがたさ」だった。その「近寄りがたさ」を因数分解していくと、やがて出現するのが、「書店で紙の本を買う自分が好き」「紙の本を読んでいる私が好き」「本が好きな私が好き」といった自意識への敬遠だ。」
同書p221
本書でインタビューを受けた若者の世代が中年になる頃には、紙の本は愛好家のみが買うものになり、メインの販売用途としては電子化がほとんどを占めるようになるのかもしれない。
しかし電子化された本が今後も同様に利用される未来は保証されていない。そもそもテキストメディアでの学習や情報収集が下火になってきた昨今、「それなりの内容の長文を読んで理解する」という能力が今後必要とされるのかすら分からないのだ。
読書=教養時代の終焉
本を読んでいる人は頭が良いという、あまり頭が良さそうに見えない考えはうっすらと世間に流布している。
この考えにはいささか疑念が残る。確かに本をたくさん読んでいる人と頭の良さには相関関係はあるのかもしれない。しかし因果関係はない気がするのだ。さらにもっと言えば重要なのはどのような本をいかに読むのかということの方が大事ではないか。今回さまざまな学生にインタビューした著者も現にこう述べている。
「もともと筆者の中にあったある仮説が、学生への対面調査によって立証に近づいたことを記しておこう。その仮説とは、本をたくさん読んでいる人が必ずしも賢いというわけではないというものだ。冊数をたくさん読んでいる学生だからといって、本を読んでいない学生に比べて言語化能力が高いとか、筆者の質問に対して勘所を押さえるのが上手いとか、芯を食った回答をするわけではない。」
同書p94
著者はこのような実感と共に「読書によって培われる知性があることに疑いはないが、読書以外によって培われる別の知性も確実にある」と述べる。
ではその読書以外の方法とは何か?動画なのか?オーディオブックなのか?それともAIなのか?
今後読書以外の別の何かが勉強の方法論として覇権を握る日は近いのかもしれない。
それでも本好きの私としてはまだもう少し「読書によって培われる知性」に賭けてみたい。そう思えた一冊だった。
