「どうすればよかったか?」はみんなが心の奥底に閉じ込めた記憶にそっと触れてくる

映画『どうすればよかったか?』公式サイトより引用

※この記事には本作におけるネタバレを含みます。

あらすじ

 面倒見がよく、絵がうまくて優秀な8歳ちがいの姉。両親の影響から医師を志し、医学部に進学した彼女がある日突然、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。

 その判断に疑問を感じた弟の藤野知明(監督)は、両親に説得を試みるも解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。このままでは何も残らない——姉が発症したと思われる日から18年後、映像制作を学んだ藤野は帰省ごとに家族の姿を記録しはじめる。

 20年にわたってカメラを通して家族との対話を重ね、社会から隔たれた家の中と姉の姿を記録した本作。“どうすればよかったか?” 正解のない問いはスクリーンを越え、私たちの奥底に容赦なく響きつづける。

映画『どうすればよかったか』公式サイトより引用

この映画の見どころ

 絆ー牛馬などのをつなぎとめるもの。(漢字辞典オンラインより引用)

 この映画を見ると、「家族の絆」なんてものはつくづく綺麗事だと思わされる。鑑賞していて何度も何度もため息が出た。ホッとする瞬間はごく僅かだ。それでもスクリーンから目が離せない。見てしまう。本当は見てはいけないものを見てしまう。この映画の感想を端的に述べるとそうなる。家族の中の出来事を、その家族の一員が撮ったものを見るという異常事態に、自分が心の奥底に封じ込めていた嫌な記憶をグルグルとかき混ぜられている気分になる。

 本作は家族の話である。統合失調症は確かに大事なファクターだが本質ではない。問題は撮り手である監督を含めた4人の家族の不調和だ。「病院に連れて行けばいい。」と外部の人間が言うのは簡単だ。でもそれで話が終わるほど単純ではない。家族はその一つ一つが外部の人間が全く理解不能な論理で動いているからだ。この家族ははたから見ているとすごく幸せに映るだろう。優秀な両親に面倒見がよくて親と同じ医学の道を志す姉、監督自身も国立の大学を出ている。いわゆるこの「ええとこの家」が姉の病気の発症をきっかけに、機能不全に陥ってしまう様をまざまざと見せつけられる。そこに私は落ち着かなさを覚えてしまう。

 その理由は外部からのアドバイスを徹底的に排除する映像にある。母親が認知症と思われる症状が出てきた2005年頃に、姉が家から出ないようにと、玄関のドアにゴムで靴が括られている映像を見た時は唖然とした。とうとう母親までも病気になってしまったんだと。もうこの家は他人からの一般論的なアドバイスや家族同士の連帯でどうにかなる状態ではない。然るべき第三者機関の介入が必要だ。とっくの前からそう思っていた私の感情が制御不能になった瞬間だった。

 そこから事態は大きく動く。2008年の5月から3ヶ月間、姉は精神科に入院する。退院してからの姉の映像を見ると、症状が大きく回復しているのが一目瞭然だった。その瞬間に、姉が統合失調症と思われる症状が初めて出た1983年からの25年間はいったい何だったのかと思ってしまう。そして何度でも何度でも思う。「どうすればよかったのか?」と。

ドキュメンタリーの可能性

 この映画に救いが全くないわけではない。姉が癌を患っている事が分かってから、監督である弟は姉がしたい事を全てさしてあげようと決める。家族でご飯に行ったり、姉が大好きな占いのグッズをフリーマーケットで購入する映像は、見ていてとても微笑ましい。そこには父と姉と弟(母親はすでに亡くなっている。)が穏やかな雰囲気で談笑し合う光景が見える。普通の幸せを共有する一つの家族が確かにそこにはある。でもだからこそ思う。「どうすればよかったのか?」と。

 思えばこの世に「普通の家族」なんてものはないのだ。この映画を見てそう確信した。はたから見ていると確かに”普通”のところが見えても、その内部にはとても言葉では簡単に形容できない問題が幾重にも積み重なっているのだと思う。その問題と向き合うために、すぐに自分が何とかこの状態を打開できなくとも、少なくとも家族から逃げないために、監督はカメラを回す決断をしたのではないだろうか。そういう意味ではこの映画を作って公開するという行為そのものが、監督の自己セラピーになっていると解釈できる。両親を撮ることでその意味は糾弾にもなり、コミュニケーションが断絶された姉を撮ることは、弟から姉に向けた言外のメッセージにもなりうる。

 そういう意味で良質なドキュメンタリー映画というのは、見る人を傷つかせもするしまた救いもする。作り手もその例外ではない。今回の鑑賞体験を経て同じ境遇の人達は膨大な喜怒哀楽を喚起されたであろうことは想像に難くない。境遇が全く違う私でさえ、自分の家族観の再構築を迫られている最中だ。最後に蛇足ではあるが、私の家族観について話してこの文章を締めたいと思う。

補足

 私の家族は世間の家族と比較してそう特筆すべき事がないと思う。そう呑気に思えること自体が幸せなんだと、この映画を見てからは思う。そんな私であるが、もちろん家族とうまくいっていない時期はあった。具体的には高校生から大学生にかけてである。いわゆる思春期のベタな反抗期よろしく、何かと両親と揉めていた記憶がある。親に優しくされようと厳しくされようと、とにかく反抗した。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた。両親のなんとも言えない表情だけは、今でも覚えている。

 この映画での監督の発言に、私は大きく頷いてしまった。「親がなんでも先回りして決断してしまうのが一番良くないと思う。」当時の私はこの親の先回りに対して、何とか逃げてやろうともがいていたのだと思う。でも自分が親になる歳になって思う。先回りしてしまうのが親なのだと。これが子供への愛情からくる葛藤なのか、それとも自分を納得させるためなのかは分からない。(恐らくその両方だと思う。)この複雑な感情を持ちながら子供と向き合うのが子育ての大変さで、これを経験しない親はほどんどいないと思う。

 親と子供の関係というのは一種の呪いなのだ。これは血が繋がっているか否かの話ではなく、家族という小さな社会で展開される儀式に、家族の一員は自動的に参入せざるを得ないということだ。この儀式が上手く機能しているうちはハッピーで過ごせるが、儀式の異常性がどんどん高まっているのに気づかないまま放置すると、互いを傷つけ合うことになってしまう。時間が解決することもあればそうならないこともあるし、家族の誰かが離れて儀式の効力が消えることもある。何にせよ家族の問題は家族だけで解決することは相当に難しいということである。

 この映画を見た人が一人でも多く幸せになることを心から願っている。そして見た人が各々抱える「どうすればよかったのか?」に対して、いつの日か心休まる答えが見つかればいいなと思う。

 

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